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Posted by だてBLOG運営事務局 at

2011年03月20日

我が家の被災記録その5。

とりあえず、電気と水道が復旧するまでの
四日間を記録しました。


もっと大変な思いをされてる方々が、
まだまだたくさんいます。

我が家も電気は復旧しましたが暖房はつけません!
寒さにもだいぶ慣れて来たしね。


余震も続いているし、原発のことも怖いし、
まだまだ安心して生活は出来ませんが、それでも家族は元気ですから!



実はこの四日間の記録・・・
私の知人&友人だけ見てる、専用のブログに投稿してたものです。

携帯電話が復活したときから
少しずつ書きとめていき、安定して携帯が使えるようになって
一気に記事にしていました。

地震後、携帯が復活してメール受信をしたら
50件以上ものメールが次々と入り・・・
これだけたくさんの親戚や友人達が心配してくれている
と思ったら「無事です!」という返事だけでなく
みんなにきちんと報告したいと思ったんです。

一人ずつ説明する必要もないし
でもみんなに状況報告が出来るから
あらためて、ブログっていいな♪と思いました。


そしてこちらの、だてブログでも
安否確認などに役立ってますよね。

なんだかいろんな方々からコメントをいただき
とっても嬉しく思っています。本当にありがとうございます。
まだまだ大変な日が続きますが、いつか落ち着いたら
みんなとゆっくり会って飲みたいよお~(笑)



そしてこの震災で被害に会われた方々の為にも
生かされた私達は毎日、一生懸命に生きなければなりませんね。





ちなみに明日からは、我が家の被災ご飯♪
・・・とかアップしていきますから(^^)

  


Posted by みゆきんぐ at 15:54Comments(3)東日本大震災

2011年03月20日

我が家の被災記録その4。

◆被災4日目◆

4日目です。

ちなみに朝はだいたい余震で目が覚めます。
地鳴りのようなゴーっとゆう音のあとカタカタと揺れます。
余震が続いているので、いつでも身体が揺れているような状態です。

これだけ続くと子供達も怖がり、ちょっとした揺れでも…
机の下に隠れたりしています。

4日目はさすがにそろそろ温かいものが食べたいね…となり、
実家で炊き出しをすることに。
両親と子供達は実家に向かい、私とパパと義妹はスーパーの買い出しに。
三人いれば15個の缶詰めかカップ麺が買えますからね。

10時オープンだったので9時半ごろ行ったのですが、
お店の準備の都合で11時オープンになりました。
それでも開けてくれることに感謝です。もちろん文句言う人なんていません。

買い物が始まり、あと20人位で自分達の番だ!というところで、津波警報が発令。
あっという間にお店は閉店し、みんな逃げ帰りました。

結局、津波が来ることはなく…長蛇の列を並んだ時間は無駄になりました。

昼過ぎに実家に向かうと、土鍋で炊いた炊き立てのご飯とカレーが出来上がっていて、
本当に美味しくて嬉しかった!

そして実家では、水が出ていたので、炭火でお湯を沸かし、
少しずつのお湯を使って髪の毛を洗いました。

気持ちいいね~(^^)とニコニコして嬉しそうに言っていた、
ムネ吉の笑顔がなんだかとても印象的で頭に残っています。

みんなでほんのちょっぴり気持ち良くなって、マンションに戻りました。

マンションに戻り…部屋の扉を開けると、なんと水が流れる音が!
ここで水道が復旧しました。

涙が出ました。

まずはトイレの心配がなくなります。
なるべく水を使わないように、誰かが大便をしたときだけ、
お風呂から水を汲んで来て流すようにしてましたから。

カセットコンロで沸騰させれば料理にも使えますしね。
ホントに水が出ることのありがたさを実感しました。


そのあとマンションの他の部屋の方々と少しゆっくり話す時間が出来て、
情報交換が出来ました。

一人の奥様は旦那様が某スーパーの方で、とにかくお店を開ける為に
一生懸命やっている…とききました。
自分だって被災者なのに。

別の奥様は旦那様が仙台空港にお勤めで、地震発生から2日後位に
やっと歩いて戻って来たのに、自分の家の車がガソリン入ってるから…と、
歩いて帰れない、空港に取り残されてる人を迎えに行ったそうです。
自分の家だって小さい子供さん二人いて、奥様は大変なのに…。

でも本当に立派で素敵です。


そして夕方になり、そろそろ家に戻らないと!
日没までにやることやらないとよね!って、言って解散したそのとき、
街灯やマンションの廊下の灯りがつきました!

近所中から歓声が聞こえて来ました!
また私は涙が…出ちゃった。

復旧がいつになるのかわからず、一体この生活を何日やるんだろう?と、
正直、疲れ果てて心が折れそうな状態でしたが、
電気と水道が復旧したことで、私の気分も復旧しました。

この日の夜は缶詰で過ごそうと思ってましたが…
豪華に温かいうどんをみんなで味わいました。

  


Posted by みゆきんぐ at 15:37Comments(0)東日本大震災

2011年03月20日

我が家の被災記録その3。

◆被災3日目◆

地震発生から3日目。

パパは会社の事務所が心配だから…と、
私のママチャリで二時間以上かけて仙台の街中の事務所に…
おにぎり持って、向かいました。
車なら30分なんですがね。

私と義妹と子供達は留守番&片付け&ご飯の用意を。
私の父は朝から近くのスーパーに三時間以上並んで買い物をして来てくれました。

母は、実家の水が出るから…と、手洗い洗濯をしに実家へ向かいました。

パパ以外は昼過ぎに戻り、お昼ご飯を済ませました。

まだまだ食材が不足していましたので、両親に子守をしてもらって、
私と義妹でスーパーやホームセンターをまわることにしました。
どこのお店も長蛇の列。
そしてやっと買い物が出来ても、一人五個まで、一人五百円まで…
などとなっており、9人分を用意しなくてはならないのに
一食分しか買えないような状態でした。

それでもなんとか缶詰めなどを買って、夕方頃家に戻ると…
パパも戻っていました。

会社に置いて来た車にガソリンを入れて帰ってくる予定でしたが、
ほとんどのGSが閉まっていて、やっているところは100台以上の長蛇の列で
しかも20リットルの制限などがあったみたいです。
パパはガソリンを諦め、少ないガソリンのまま帰って来ていました。


この日もろうそく一本と、ラジオと、サスケとムネ吉の変な踊り(笑)
スベルトン?とか・・・なんかそんなのを見て、就寝しました。

  


Posted by みゆきんぐ at 15:18Comments(2)東日本大震災

2011年03月20日

我が家の被災記録その2。

◆被災2日目◆

こんなに夜明けが待ち遠しかったことはないです。

自分達は無事なのに電話がかからない・・・
携帯電話のバッテリーはどんどん切れていくし。
これからどうなるんだろう?という不安感。

日の出の瞬間心の中で拍手しました。

明るくなってから避難所を出てみんなで実家に戻りました。

築100年以上の古い家です。
まわりの家は瓦が落ちたりしているところがほとんどでしたが、
うちの実家は何ともなってなくて、びっくりしました。
何カ所かガラスにひびが入ったりしてましたけど、それだけ。

庭を囲っている塀は歪んでました。


家は無事でしたが、停電状態では極寒の我が実家。
津波の水は引いていたので、私のマンションでみんなで
避難生活をすることにしました。

マンションに戻るといろいろなものが散乱しており、
それらをまず片付けることから始めました。

三世帯分の食料を我が家に集めましたが、
今後どれだけ続くか検討もつかない停電&断水の中、
家族9人が暮らしていくには全然ものが足りなかった。

ろうそく一本の灯りで…夜ご飯はあるもので腹を満たしました。
子供達がハッピーバースデーだ♪と言って、
楽しそうに吹き消そうとするので、やめさせるのが大変でした(笑)

特にムネ吉はみんなが集まってることが嬉しいのか…テンションが高くて。
歌ったり、踊ったり…意外と楽しい夜を過ごしました。

今、考えれば、テレビがつかず…ラジオのみの生活だったため、
各地の惨状を見ていなかったから、そんな風に過ごせたのかも。

泥まみれでしたが、近所の人も私たちもみんな元気でしたから。


電気がつかない真っ暗な部屋で余震が続く中、
なかなか眠れないかな…子供達も夜泣きとかするかな…と
思いましたが、みんな疲れていたので、ぐっすり眠りました。
大人は余震で起きたりしましたが…。

以上が2日目です。

  


Posted by みゆきんぐ at 15:14Comments(0)東日本大震災

2011年03月20日

我が家の被災記録その1。

とてつもない大震災を経験しました。
私的、記録としてココに残しておきたいと思います。


◆被災1日目◆

ムネ吉と家の中で揺れを感じました。
揺れがどんどん強くなったので二段ベッドの下に二人で布団をかぶって
ジッとしていました。
経験したこともない大きな…長い時間の横ゆれ。
ものが倒れ、食器が割れ、私たちが乗っていた二段ベッドも
気がつくとベッドごと40~50cm動いていました。

少し揺れが落ち着いて、二人で外に出て。

ちょうど車で戻ってきた義妹親子と一緒に外にいましたが、
揺れが落ち着いたので、すぐに兄さんを迎えに学校へ行きました。

掃除中だったサスケ兄さんは三角巾にエプロン姿で
ぶるぶる震えながらグランドで先生方と一緒に座っていました。
寒そうにはしてるけど、ちょっと友達と楽しそうにおしゃべりしてて、
大丈夫かな…と思ったけど、私と手を繋いだ瞬間泣き出していました。

家に戻り、義妹親子と合流。
まだ余震があったので、車に乗ってテレビを見ながら様子をみていました。

津波が来ていると、テレビで言っているのを見て映像も見てましたが、
まさか自分のところまでは…と思ってました。
車の中でじっとしていたら…同じマンションの奥さんがこちらに向かって走って来て、
すぐ近くのセブンイレブンまで津波が来てるから逃げたほうがいい!って。
それを聞いて初めて、自分達の置かれてる状況がわかりました。


津波から逃げる為、車を走らせました。


逃げる途中、川の横を通ったのですが…増水した川の流れの中、
材木などと一緒に車が流れていたのを見たときは自分の目を疑いました。

地震で信号も止まっていたため猛烈な大渋滞の箇所もありましたが、
なんとかすり抜けて高台に非難しました。

あんなに頭を真っ白にして、子供達の問いかけにも完全無視で
運転したのは初めてです。


しばらく、高台にいたのですが…高台には行ったものの、
いったい津波がどこまで押し寄せているのか、既におさまったのか…
具体的な報道はなかったため、しばらくして車で自宅マンションのほうに戻ってみると、
マンションまであと200m位のところに近づいたあたり・・・
そこまで水が来ていて、マンションまではたどり着けなかったです。


義妹と相談し、近くの実家に行こうかとも思ったけど…
この状況では、今更行っても逃げているか浸水してるか…と判断。

近くの体育館に避難することにしました。
私たちが行ったときには体育館は既に人がいっぱいで、
すぐ近くの別の施設へ案内されました。


案内されたところに避難すると、たまたま私の両親もそこにいて
すぐにお互い無事を確認出来ました。
いま思えば同じ避難場所にいたのはとてもラッキーなこと。
同じ地域の人が避難した場所は高校や中学校など五カ所以上あったようで、
とにかくどこの避難所も人ごみで溢れてかえってましたから。


避難所ではすぐに、毛布を配ってくれたり、パンを配ってくれたりしました。
何時間かそのままいましたが…津波警報は解除されないし、
このままココで一晩なんだなあ~と思ってましたが
とにかく寒くて寒くて、これでは絶対にいられないと思い…
意を決して実家に毛布をとりに行くことにしました。

停電で真っ暗な街の中、ちょうど実家近くまで車ですすむと
消防団の車が止まっていて「この先は行けませんよ」って・・・
言われていたら、横からパパの顔が見えたのです!

これも本当に運がいいタイミングでした。

パパは仙台の職場から三時間かけて歩いて帰って来て、
実家を覗いても誰もいないし、マンションには近づけないし、
途方に暮れ、避難所巡りをしようかと思って歩きだした・・・
ちょうどそのときに私たちが車で横に止まったのでした。

真っ暗な実家から毛布を運び出し、避難所で夜を明かしました。

もちろんこんなことは初めてです。



  


Posted by みゆきんぐ at 15:04Comments(0)東日本大震災